子育て中に思う、男児と女児の違いの一つに、
泣いている時の切り替えの早さがある。
あくまで我が家の男児女児を見ていて思うことなのだが。
娘がぐずり泣き始めると、優に1時間は憂の時間だ。
また始まったかと、うんざりすることさえある。
長男は、泣いている最中に
あれ?ダンゴムシ虫じゃない?
などと気を散らす声がけさえすればそれで済んだ。
ピタと泣き止んで、ダンゴムシ探しに夢中になってくれる単純さが男児の可愛さなのだが、
こと娘に関しては、そうはいかない。
何を言っても
気をそらしてみても
慰めてみても
火に油を注ぐだけ。
本人が落ち着くまで、ひたすら待つしかないのだが、それがなかなか長いのだ。
しかも、夕方の保育園の荷解きやら、洗濯やら、夕食作りとやることが多い時間帯に限って愚図り出す。
理由は、たいてい兄弟喧嘩か、お友達とのちょっとした言い合いなどだが、彼女に非がある場合も少なくない。
それでも、まるで泣いたもん勝ちであるかのような大げさな泣きっぷりに、言葉のやりとりが機能しなくなりサジを投げたくなることも多々ある。
昨日も同じく、外で遊んでいたはずの娘が玄関でしくしくと泣いていた。
私が気づかないふりをしていると、泣き声はさらにドラマチックに大袈裟になるのだった。
そんな自分の泣き顔を、鏡でちらちらと見ながら、盛大に泣き続けているものだから
嘘か本気か、疑ってしまう。
泣き声が盛り上がり、いよいよ感情の波に飲まれて悲劇のヒロインピークとなった時
どうしましたか〜?
と優しく声をかけてみた。
泣き声は一段と激しさを増す。
いつもは何か話そうと試みるが、昨日は黙って抱きしめてみた。
何も聞かない。
抱きしめて、涙と鼻水を丁寧に拭き、またぎゅーっと抱きしめる。
泣きたいのね
頭を撫でてやると、さらに泣き声は高まった。
もはや女優顔負けの素晴らしい泣き声だった。
いっぱい泣いていいよ。
泣きたいんだもんね。
私の腕の中でおいおいと声を上げてなく娘。
悲しみの感情は熱のように伝わってきて、私も泣きたくなった。
この悲しみの感情を全部出してあげようという気持ちになった。
悲しいんだもんね。泣こう泣こう。いっぱい泣こう!
悲しみよもっと出てこい!
の意気込みで、娘を包んでいると、娘は泣きながら笑い始めた。
あれ、もっと泣いていいんだよ?
顔を覗き込むと、泣き笑いの娘は、もう一度泣こうとチャレンジするも、
笑ってしまって先ほどのようなドラマチックな泣きができない。
泣き顔と笑い顔をくるくると入れ替えながら、何度も試している。
それが可笑しくなって二人で笑った。
泣きたい感情がどこかへ行ってしまったらしく
私の腕の中で嬉しそうにはにかんでいた。
目を見て
またお外で遊ぶ?
それともお家に帰ってくる?
聞くと、立ち上がってにこりと笑って玄関を開けて外へとかけて行った。
今までで最速の切り替えスピードだった。
あれ?
解決なんてしなくていいんだ。
玄関に残された私は半ば呆気にとられていた。
夕食作りを再開してしばらくすると、
ぞろぞろとけたたましい音を立てて子ども3人が帰って来た。
また小競り合いをしている。
誰か泣くまで終わらない。
その声に、私はいつも苛立つのだが、
先ほどの成功体験?も手伝って、別の作戦に出てみた。
私は夕食作りの手を止めて
審判の役割から降り
ソファに座り、
両手を広げて
泣きたい人はママのところにおいで〜
怒りたい人もママのところにおいで〜
と大騒ぎの渦中で目をつぶって叫んでみた。
彼らの感情がなんであれ、丸ごと受け止めようと試みた。
すると、子供3人が競うように私の元へ飛び込んで来た。
一番甘えて来たのは長男だった。
重い。。
それぞれに言い分があるようだが、仲裁はしなかった。
君たちは毎日喧嘩したいのね〜
泣きたいのね〜
天を仰ぐように、ひたすら受け入れのポーズを取っていると、
子どもの合間を縫って犬までもが割って入ってきた。
私の上で、子ども3人+犬1匹が揉みくちゃになっていた。
みんな嬉しそうだった。
私もなんだか楽しくなっていた。
夕飯作るの疲れちゃったよ
そういうと、
ママ作らなくていいよ〜
バナナでいいよ〜
みんなすこぶる機嫌がいい。
私は、子供達の安全地帯であるだけでいいや。
彼らをなんとかしようとしなくていいや。
ソファに仰向けになり、子供達に対してまるで「降参」のポーズを取っていた私は、
自分なりの子育ての仕方を一つ見つけた気がした。
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