私の登山は山頂に行くことを目的にはしていない。
むしろ、その山で対話すること、森の声を聞くこと、
そして自分の中に起こる変化をみることが目的だ。
けれども、森があまりにおしゃべりで、歩みさえ進めない時もある。
感覚が反応して、楽しくて進めない。
留まって、その声に感覚を合わせているだけで満たされる。
歩くことは目的ではない、と思えてくる。
そこに留まっている。
それだけで「喜び」を体感できる世界。
木は、歩かない。
岩もそこに在るだけ。
私たちは、当たり前のように
動こう
何かを成し遂げよう
意味あることをしよう
人より抜きんでよう
褒められよう
認められよう
そうやっていつも動くことを良しとしている。
結果の中に自分の存在意義を見出そうと躍起になっている。
それが生きることの意味だった。
けれども森は違う。
動くこと、歩くことさえ目的ではない。
そこに在るだけで、喜びと同調し、そして繁栄を続けている。
死と生のサイクルの中で、他者と調和をはかりながら、確かに存在している。
「ただ在る」
それが「存在する喜び」であり、調和であること。
その世界に同調することが、なんとも心地よくて、そこを動けなくなる。
ただ在るだけで
ただ在るだけで
こんなにも平和で満たされた世界があるなんて
登頂が目的でない私の登山が、ついに、歩くことさえ目的ではなくなった。
共にただそこに在ること。
その一員になれることに、じんわりとた幸福感が広がる。
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