私が編み物を始めたのは、
10年ほど前、長男を妊娠中の時でした。
会社を辞めて、郊外へ引っ越し、
一人家の中で、お腹をさすりながら、
生まれてくる我が子のために編み物して過ごす。
そんな、分かりやすい
ワンシーンをやってみたくて、
初めたものでした。
洋裁もハンドメイドとも無縁の仕事人間でしたが、
かぎ針編みを始めてみると、途端に夢中になりました。
本を頼りに、うまくできない歯痒さと、
できた時の喜びを繰り返しながら、
目の前の、何もなかった空間に
自分の手から生み出されたものが、
確かな面積となってその空間を埋め、
そこに存在することに、感動を覚えたものです。
それから数年間は手をつけずにいましたが、
本格的に再開したのは双子を妊娠した時でした。
入院生活を支えた
『祈り』としての編み物
一卵性双生児で、双子に成長の差が見られるTAPSという症例のため、早い段階から管理入院となり、およそ4ヶ月半に及ぶ入院生活を送りました。
入院当初は、
まだ200グラムも満たない7センチの双子。
ここから出産までの長い長い道のり。
二人を無事に出産できる確率は18%です。
死亡率の高さばかりを強調され
その上、後遺症が出ない補償はないことを医者に宣告されました。
「おめでたさ」
なんて微塵も感じられない双子妊娠、検査三昧の日々、
幼稚園に入園したばかりの3歳の息子と
離れて暮らすことへの不安
自分ではどうすることもできない状況の中で、
唯一、時間だけが頼りでした。
毎日目にする心音が消えることが何よりも怖くて、
早く時間が進んで欲しい。
1ミリでも1グラムでもいいから、成長して欲しい。
だから、すがるように編み物に向かい
お腹の中の命と、手の中の編み目とをリンクせさて
ひと編みひと編み、
そのわずかに増える編み目を
我が子の成長に見立てて、
時間の経過と成長を確かめるように編みました。
やがて、
自分ではどうすることもできない
いう状況に、慣れたのか、諦めたのか、
入院生活を楽しむ方へとシフトしていきました。
私の病院のベッド横の一角は
毛糸棚となり、編み物の本が並び
まるで小さなアトリエのような空間ができました。
そして、病院の配慮で息子も会いに来られるようになり、
病室の小さなベッドの上は窮屈で楽しくて、
そこで昼寝する息子の隣で編み物をするという
まるで我が家のような時間を、
束の間過ごせるようになりました。
その幸せな時間が、
転院や、救急搬送や、
国立病院での検査や
日々研修医の検査や、
まるで『人体実験』のような日々を
人らしく過ごせるように支えてくれました。
幸福と緊張の間を激しく行き来する入院生活の中で
病室はアトリエ。私がいる空間が我が家
と思えるようになり、
MFICU(母体胎児集中治療室)でも
快適さを見出せた時には、
状況の緊急度とは裏腹に、
この先、どこに運ばれたって怖くないや
もうどこでも生きていける
そんな妙な自信さえ備っていました。
そして、
入院生活も悪くないな
と思い始めた頃に、
無事双子出産となったのでした。



今度は自分のために、そして…
それから6年。
また編み物を再開したのは、
自分のために編みたくなった
からです。
今度は、あの管理入院の日々が羨ましく思えるほど
騒々しい日常の中で、自分の空間を作る、
いわば『結界を張る』という意味で、
編み物に没頭しました。
手と編み針が一体となってリズムを刻む時
私は無我の境地に行けます。
編み物は、私にとって瞑想となりました。
どんなに騒々しくとも
どんな場所にいても、
一度編み物を始めれば、
そこは私だけの空間になる。
入院中に培った奥義は、
環境が変わった今も、私を支えてくれます。
その私空間の中で作られたものは、
私を驚くほど心地よくしてくれました。
それまでは、子供のためだけに編んでいた物を
初めて自分が身に纏った時、
それはまるで
優しい手で包み込まれるかのような
癒やされる感覚を味わったのです。
帝王切開の傷跡も、
手術や検査で、痛みや恐怖を感じた
あらゆる体の部位が、肌が、記憶が、
物のように扱われた悲しみが、
自分で編んだ物によって、癒されていく。
過去の私ごと、今の私を包み込んでくれる。
編み物に限らず、手仕事には、
その動作自体にも、作られた物にも
人を癒す力が宿るのでしょう。
この優しい力に救われたからこそ、
今度はこれを伝え、共有していきたいと思うのです。
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